世間一般的に12月は忙しい時期だが、特広の慌ただしさには遠く及ばない。年末年始の盛り上がりにかこつけてクスリに手を出す馬鹿が多いから、毎年取り締まりを強化する。現行犯から未遂も含めてしょっ引く連中の母数が上がれば、事後処理が増えるのも必然だ。
結果、部下たちが書き上げた大量の報告書が、最終到着地点である俺のデスクにうず高く積み上げられる。これはもう一種の風物詩みたいなものだ。
「今夜はもう上がっていいぞ」
書類の隙間から覗き込むと、お前は自分のデスクでパソコンに向かっていた。その光景は数時間前からまったく変わらない。帰宅を促すのも初めてではなかったが、お前の返答もまた変わり映えのしないものだった。つまり、もう少しだけ残ると。
「そろそろ終電だろ? 今ならまだ間に合うぞ」
念のためにそう付け加えてみるが、お前の答えはやはり変わらなかった。
「……そうか」
お前が構わないなら別にいいと、俺も書類の処理に戻る。
労働時間にうるさいこのご時世、同じお役所勤めの人間から顔をしかめられそうだが、俺は基本的に自ら残りたいと言ったやつを無理に帰らせるつもりはない。部下の意思を捻じ曲げることになるからだ。
上司が残っているから帰れないなんて無能な連中は、特広には一人もいない。現に俺のデスクがこんな状況だろうと、自分の仕事を終わらせた部下たちはさっさと帰っている。嫌味なほどきっちり仕上げた報告書の束を押し付けて、お先に失礼しますと清々しく定時退社した真壁がいい例だ。
だからお前も気がすむところまで進めたら、帰る気になるだろう。帰るタイミングが合うなら、俺が車で送ってもいい。そんなふうに思っていた。ふと、パソコンの画面を見るまでは。
デスクトップの右下に、たった今変わったばかりの日付が表示されている。12月25日。その日付がクリスマスと呼ばれる日だということを思い出す。
冬になれば霞朝のいたるところでクリスマスの飾りを見かけるから、そのイベント自体を忘れていたわけじゃない。ただイヴだのクリスマス当日だの、そういったことを全く意識していなかっただけだ。意識する必要もなかったのだ、少なくとも去年までは。
「…………」
またさっきと同じように様子を伺うと、お前は相変わらずパソコンに向かっていた。カタカタと規則正しくキーボードを叩く音だけが、空調の音に混じって室内に響き続けている。
俺は気づかれないように苦笑した。お前くらいの年頃の女なら、クリスマスイヴや当日は恋人と過ごしたいものだろう。だがお前は、そんな素振りを微塵も見せなかった。
だからこそ思うのだ、もっと早く気づいてやるべきだったと。
「……少し外すぞ」
急に席を立った俺を、お前は不思議そうに見ている。どこへ行くんだ。そう聞きたそうな顔だ。
「コンビニ」
一言告げて部屋を出た。*「ほら」
数分後。事務所に戻るなり俺は、お前にコンビニの袋を押し付けた。
「腹、減ってるだろ? 少し休憩するぞ」
俺の意図を察して、お前はありがとうございますと袋を受け取る。缶コーヒーにサンドイッチにおにぎりにパン。定番の商品を取り出し終えると、最後に残ったそれにお前は目を丸くした。
「……悪いな、今はこれくらいしか残ってなかった」
袋の中から出てきたのは、手のひら大の小さなクリスマスケーキ。サンタクロースを模した赤いイチゴが、可愛らしくちょこんと乗っている。コンビニスイーツなんて普段は買うこともないから、正直なところ味の保証はない。値段だってたかが知れたものだが――。
「っ……」
顔を上げたお前があまりにも嬉しそうに笑ったから、面喰らった。安物のクリスマスケーキを後生大事に抱きしめて、またありがとうございますとお前は笑う。それはさっきまでパソコンに向かっていた部下の顔じゃない。年の離れた、俺の恋人としての顔だった。
「ったく、お前は……」
思わずケーキごとお前を抱きしめていた。なんて可愛いやつなんだ。喉まで出かかったそんな言葉を飲み込んで、思い切り頭を撫でる。ぐしゃぐしゃになるといつもなら文句の一つでも出るところだが、今はそれもなかった。甘えるように俺の胸に頰をすり寄せたお前が、ただ可愛くて愛おしい。
「あと一時間くらいで帰るぞ。ついでに明日……いや、日が回ったからもう今日だな。今日は残業禁止だ。定時以降空けとけ。いいな?」
お前が元気よく頷くのを確認すると、頰が緩むのを感じた。きっと今の俺は締まりのない顔をしていることだろう。お前以外には、とても見せられたものじゃない。
「決まりだな。……ああ、それと一応言っとくか」
きょとんとするお前の頰に触れ、身を屈める。素早く掠め取った唇は、しっとりと柔らかい。
「メリークリスマス」
おそらく明後日はさらに大変なことになるだろうが、今は考えないでおくことにした。
〜fin〜