「ん……あれ?」
鼻先をくすぐったいい匂いにふと目を覚ます。キッチンに明かりが点いていた。ソファーから起き上がってドアを開くと、エプロン姿の君がいる。僕と目が合うと、君は「おはよう」と笑った。
「起こしてくれてよかったのに。っていうか……」
ちらりと時計を見上げた。針が示しているのは、まだ20時手前。特広所属の君が恋人の部屋に来るには、ちょっと早すぎるくらいの時間だった。
「仕事大丈夫なんですか? 周防さんに怒られません?」
会えるのは嬉しいけど、普段の激務っぷりを知っているからこそ心配になってしまう。
でも、君の返答は意外なものだった。なんと、その周防さんが今日は上がっていいと言ったらしい。
一体どういう風の吹きまわしだろう。眉を寄せると、君は「心配ないよ」おかしそうに笑った。
「そういうことなら、僕も何か手伝いますよ」
せっかく君が早く上がれたなら、2人でゆっくりする時間は長い方がいい。
だけどその提案は、すぐに却下されてしまった。君は「いいからゆっくりしてて」と、僕をリビングに追いやって、そのままパタンとドアを閉じてしまう。
「……邪魔ってことかな?」
手伝うと言ったって、僕には洗い物くらいしかできないから。
「まあいっか」
ひとまず君に言われた通り、大人しくソファーに座って待つことにした。

しばらしくて、「おまたせ」の言葉とともに君がキッチンから料理を運んできた。
「え、どうしたんですか? これ」
テーブルの上に次々と並べられた料理は、平日の夜には不釣り合いなほど豪華なものだった。でも君が最後に運んできたものを目にして、やっと理解する。それは小さなケーキだった。チョコレートでできたプレートには『Happy Birthday Senna』の文字。
「そっか、そういえばそうでしたね」
今日は6月6日。僕がこの世に生まれた日。「忘れていたの?」と君が目を瞬かせる。
「当たり」
思わず苦笑が漏れた。君もつられて頰を緩めると、思い出したようにキッチンに入って、またすぐに戻って来る。
「これ、周防課長から」と差し出されたのは、よく冷えたシャンパンだった。
「……なるほど、そういうことですか」
君が早く帰れた理由にもようやく納得する。つまり今日くらいは君と2人でゆっくり過ごせ、ということらしい。
「まったく、あの人は……」
口が悪くて横暴で、無茶振りが多いことで有名な君の上司。特広がブラック企業も真っ青なほど忙しいのは間違いなく彼のせいなのに、たまに何の前触れもなくこういうことをするのだからまいってしまう。
しかもご丁寧にシャンパンがハーフボトルなあたり、「調子に乗って飲みすぎるなよ」と言われているみたいだ。かなわないと、肩をすくめる。
「じゃあ、せっかくだしいただきましょっか」
シャンパングラスなんて洒落た物はこの部屋に置いていないから、君とお揃いで買ったガラスのコップにシャンパンを注いで笑い合う。君と僕、2人きりのバースデーパーティーが始まった。

「僕ね、今までこの日が大嫌いだったんです」
君が作ってくれた料理がなくなりシャンパンのボトルも空になった頃、僕はぽつりと呟いた。
「あと1日早くか、1日遅れで生まれたら良かったのにって何度も思いました。そしたら、ちょっとは違った人生になってたかなーって……」
隣に座った君の肩に軽く頭を預ける。2人でシェアしたから僕が飲んだシャンパンは1杯程度だけど、微かに頰が熱い。たぶん、軽くは酔っているのだろう。アルコールの力が口を滑らかにしていた。
「でもね……今日初めて思いました。僕、今日って日に生まれて良かったって。そうじゃなきゃ、たぶん今こうして君と一緒にいられなかったから」
猫がするみたいに君の頰に顔を擦りつける。うなじの辺りからほんのり甘い匂いがしたような気がして、目を細めた。
「大好き。ありがとう、一緒にいてくれて……」
肩に手を回して、君をぎゅっと抱きしめる。甘い匂いはより強くなって、僕を酔わせた。誘われるように、柔らかい唇にキスをする。
「来年もら再来年も、その先もずーっとずっと、僕の傍にいて」

~ Fin 〜