来週の火曜日、とくに緊急の案件が入らなかったら定時に上がってもいいですか。
俺のデスクの前で報告書のチェックを待ちながら、お前はそんなふうに切り出した。
「ああ、構わないぞ。帰れるときは早く帰れ」
書類に目を走らせながら、「いつも言ってるだろ」と付け足す。
他部署からはやたらと課長の俺が残業を強要しているように見られているが、必要の無い残業を部下に強要した記憶は一度もない。――たぶん、ない。
「なんなら半休か有給使うか?」
定時上がりの可否をわざわざ確認するくらいなのだから、よほど大切な用事でもあるのだろう。そう思って聞いたが、お前はいいえと首を横に振った。大切な用事であることは確かだが、休みを取るほど時間を要するものではないらしい。
「そうか、わかった」
書類に手早く判を押して差し出す。それでこの話題は終わりだった。
***
お疲れ様でした、お先に失礼します。
事務所に響いた声で顔を上げる。
「ああ、お疲れさん」
他の連中に混じって声をかけると、お前は軽く会釈をして事務所を出て行った。手元の腕時計は18時を回ったばかりだ。
ああそういえば今日だったかと、先週定時で上がらせてほしいと言われたのを思い出す。
結局なんの用事なのかは聞いていないが、子供でもあるまいしあれこれ詮索するつもりはない。
「……ふっ」
頭の中に浮かんだ「子供」という表現に、我ながら妙な笑みがこぼれた。少なくとも最初は「子供」だと思っていた。聞き分けがないひよっこだと。それがいつしか「女」になっていたことに気づいて以来、「女」としてしか見られなくなった。
困ったことにあの一回り以上年の離れた恋人は、ちょっとした仕草や言葉でことあるごとに俺の感情を振り回してくれる。それはベッドの中だけの話ではなく、たとえば今いる事務所であったり、時に現場や公用車の中であったり、とにかく時と場所を選ばない。
もちろんお前に悪意はないし、完全に無意識だということはわかっている。だからこそ、タチが悪い。
「本当にヤキが回ったな、俺も……」
自分にしか聞こえない程度の声でつぶやいて席を立ち、煙草の入ったジャケットを手に取った。
喫煙所で煙草を二、三本消費してから事務所に戻り、再びデスクに向かう。積み上げた書類の束をさばくうちに、ちらほらと帰る連中も出てきた。それをお前と同じように見送りながら、書類の処理を続ける。
するといつの間にか、デスクに築かれていたはずの書類の山が消え去っていた。面倒な書類が無かったこともあるが、予想よりもかなり早い。
腕時計の時刻は20時過ぎ。やろうと思えばできる仕事はいくらでもあるが――。
「お疲れさん、お先」
たまには俺も早く帰るかと、気まぐれに身を任せて事務所を出た。
***
マンションの敷地内に入ったところで、自室の窓から明かりが漏れていることに気づいた。いたずら好きの小さな同居人の仕業でなければ、それができる奴は一人しかいない。
「来てたのか」
てっきりどこかに出かけているものだとばかり思っていた。渡した合鍵をいつ使っても、それは持ち主の自由だ。だから俺より先に事務所を出たお前が、俺の部屋で待っているのはとくに珍しい話でもない。
用事とやらはもう済んだのだろうか。そんなことを考えながらエレベーターを降りマンションの廊下を歩む。そして、自室のドアを開けようと鍵穴に鍵を差し込んだ時だった。
「……!」
室内から悲鳴が聞こえた。反射的に持っていた鞄をその場に放り出してドアを開く。
「おいっ! どうし――」
自室に踏み込んだ瞬間、俺はその光景に目を疑った。
玄関から見えるキッチンの床にぶちまけられた得体の知れない白い液体。爆心地と思われる場所に座り込んだお前は、床と同じ白い液体に塗れながら、ジタバタと暴れるボルを両手で必死に抱えている。状況を整理するまでに、数秒を要した。
「……何やってんだ? お前ら」
声をかけたことで、ようやくお前と一匹は俺の存在に気づいたようだ。
なんでいるんですか。開口一番、お前の言葉はそれだった。
「帰ってこねえほうが良かったか?」
思ったまま口にしたら、お前は大慌てで否定した。ただ、帰りが早かったことに驚いただけだと。
「そうか」
ひとまず靴を脱いで部屋に上がる。
「で、何やってんだ?」
歩み寄って改めて問うと、お前は得体の知れない白い液体――もとい、生クリームと思しき残骸の中でシュンとうなだれた。ケーキを作っていたのだと言う。
「なんだ食べたいなら連絡すりゃ良かったろ」
事務所の近くに深夜まで営業しているケーキ屋がある。繁華街が近い場所柄、水商売の連中が数多く利用する店だが味には定評があった。現に俺も何度かお前へのみやげに買って帰ったことがある。
だが、お前は首を横に振った。食べたいのではなく、作りたかったのだと。
「なんでまたそんな手間のかかること――」
言い終えないうちに言葉を遮られた。誕生日ケーキくらい手作りしたい。そこまで言われてようやく気づいた。
「……そうか、今日俺の誕生日か」
年度始めの翌日にあたる4月2日。世間一般がそうであるように、特広も例年何かと忙しい。だから忘れていることも多いが、今年はさほど忙しくなかったにもかかわらず、今の今まで完全に忘れていた。
そして、ふと気づく。
「お前、もしかしてこのために定時で上がったのか?」
お前が静かに頷くのを見届けてから、調理台に目をやる。そこには「Happy Birthday Eiji」の文字が描かれたチョコのプレートと、少しだけ歪なスポンジケーキが置かれていた。
ようやく状況を把握する。どうやら完成間近のケーキに生クリームを塗ろうとしたところ、ボルがクリームの入ったボウルをひっくり返したらしい。この小生意気な黒猫がやたらと生クリームを好むのは、仔猫の頃から把握済みだ。
「こら、悪ガキ」
お前が抱えていたボルの首根っこを掴んで、ヒョイと持ち上げた。目を合わせると、「なおーん」と反抗的なひと声が返ってくる。
「ちょっと向こうで反省してろ」
抗議の鳴き声は無視して、そのままリビングの端にあるケージにボルを放り込んだ。
キッチンに戻ってくると、お前はまだこぼれた生クリームの中でうなだれている。そっと傍に屈み込むと、ごめんなさいと消え入りそうな声がした。
「なんで謝んだよ」
少し強引に抱き寄せて、髪をぐしゃぐしゃとかき乱す。言葉尻が自分でも驚くほど柔らかくなっていた。たぶん、顔にも出ていることだろう。だからお前を腕の中に閉じ込めて、耳元に唇を寄せた。
「ありがとな」
誕生日を祝ってくれる誰かがいること、それが最愛の女であることがこんなにも嬉しいものなのだとこの歳になるまで知りもしなかった。
もちろん、口には出さない。ただできうる限り優しく、強く、抱きしめるだけだ。愛しさが溢れるっていうのは、今みたいなことを言うんだろう。
「……食うか」
お前が顔を上げる。何を、と言わんばかりの不思議そうな顔に笑みがこぼれた。
「ケーキ。俺のために作ってくれたんだろ?」
でもと、小さな声を上げるその唇を素早く塞いだ。
仄かに感じた甘さの犯人は生クリームか、それともそれ以外の何かか。
答えは一晩かけて、じっくりと導き出せばいい。
〜FIN〜