宝梅一秀

秋分を過ぎ、朝夕の気温が寒露という言葉に相応しい冷え込みを見せ始めた秋の午後。
以前に比べるとかなり人通りが控えめになった会社のロビーをくるりと見渡してみたが、待ち合わせ相手の姿はまだ無い。

(……俺の方が早かったか)

懐から携帯を取り出し、メッセージアプリを立ち上げて現在地を伝える。
暫く画面を眺めていたが既読にならないところをみると、彼女はまだ持ち場を抜け出せていないのかもしれない。
顔なじみの警備スタッフに軽く会釈をして、往来の邪魔にならない壁側に寄り、人待ちの体勢をとる。
大幅に遅れるようであれば既に連絡が入っているはずなので、程なくすれば返信か当人がくるだろう。

ほんの数年前までは、どこの部署に出向いているか、誰からの電話に対応しているか、誰が先月から予定に入っていた午後休取得の足止めをしているか……など、スケジュール表で共有されている情報以外もお互い具に把握出来ていた。
しかし、部署が分かれてからは、朝夕の会話で現在抱えている業務量を推測するくらい。
弟辺りに知られたら、「家で散々べったりしてるんだから、仕事場くらいは我慢しろよ。つーか、同会社・同部署で働いてる夫婦の方が珍しいからな」と鼻で笑われてしまいそうだが、スタートラインがそうだったのだ。
ふとした瞬間にちょっとした寂しさを感じるくらいは許されたい。

(ま、俺が営業部のままだったら、こんな風に一緒に午後休なんて取れなかっただろうけどな……)

豪胆なようで実は恥ずかしがりという一面を持っている彼女は、自分たちの関係を冷やかされるのがあまり得意ではない。
大阪での任期を終え、本社復帰後早々に2人の名前が社内報の一角を飾った時は、「社内の人間は遠慮なく揶揄うから」という理由で多くの社内ミーティングに代役を立て、外回りメインの業務スタイルに切り替えていたくらいだ。
それで新規の案件を取ってくるところは流石の手腕と言いたいが、内勤がメインになり逃げ場のない俺が代わりに冷やかされたことは、未だに『貸し』として残って――

「宝梅主任!」

……いつの間にか懐古モードに入っていたようだ。顔はにやけていなかっただろうか?
軽く両手で頬を叩きながら声のした方を振り返ると、彼女が所属している部署――俺にとっては古巣の男性社員が手を振りながら近づいてきていた。
自分の部下だった頃はパワフルな女性陣に圧倒される新入社員だった彼も、今はなかなかの戦力になっている、という話を最近彼女に聞いたばかりだったのだが……。

「もう”主任”じゃないって、何度言えば覚えるんだ?」

最初の刷り込みが抜けないのか、『主任』までが名前だと思っているのか、彼は毎度俺を以前の肩書で呼ぶ。
恐らくは次に顔を合わせた時も同じやり取りをすることになるだろうが、そこに不愉快さを感じさせない辺り、この男は根っからの営業職向きなのだろう。

「へへっ……失礼しました。宝梅室長も外出ですか? 珍しいですね」
「いや、俺は午後休。明日の誕生日休暇と併せて、少しゆっくりさせてもらおうかと……?」

人懐こい笑顔から一転、突然ニヤけ始めた元部下に首をかしげていると、肘で腹をつつくようなしぐさを返された。
どうやら目の前の優秀な元部下は、スケジュール表に記載された今日・明日の彼女の予定と今の俺の言葉を瞬時に結び付けて、諸々を察したらしい。

――全体会議もない日だし、部署が違う俺たちのスケジュールを確認するような事なんて、そうはないだろ?

『誕生日に揃って休暇なんて……』と渋る彼女を説得した日の事がふと頭を過った。
遠目には、部下の揶揄いを避けたい彼女が、エレベーター脇の観葉植物に身を隠してこちらの様子を伺っている姿が見える。

「……そういう事だから、余程の緊急事態じゃない限り”主任”の携帯は鳴らすなよ?」

この手の冷やかしは開き直って対応した方が早く相手の興を削げる。
案の定、冷やかす気満々でニヤついていた元部下は「……ご馳走様です」という言葉を残して去っていった。
完全に元部下の姿が見えなくなったのを確認して、彼女を手招きで呼び寄せる。
冷やかしを回避したと安堵している彼女には申し訳ないが……先延ばしにしただけで回避は出来ていないぞ、多分。

「ん? ……ははっ、何でもないよ。予約したディナー、楽しみだね」

明後日の帰宅後、盛大に拗ねているであろう彼女の対応は明後日の俺に任せて、今はこの1.5日間の休暇を楽しむとしよう。
今年の誕生日は、当日だけじゃなくてアフターバースデーも楽しく過ごせそうだ。