『さよならと、それから』塚原和馬 2022年バースデーSS

——あの日、呼び出されたのは初めて行く喫茶店だった。
今思えばそのときから違和感を抱いていた。
話があるなら行きつけのダーツバーでするのが俺たちにとっては当たり前で。
そうでない店に呼び出されたということは、あの店でできない話ということになる。

「私と、別れてください」
案の定、しばらく黙ってから放たれたのはそんな一言だった。
(……どうしてだ?)
付き合うようになって約3年。それなりに上手くやってきたつもりだった。
些細なすれ違いや口論はあったけれど、すぐに話し合って解決してきた。
そうして、乗り越えた後は前よりずっと絆が強まったように感じていた。
(……そう感じていたのは、俺だけだったってことか)

俺は付き合う前に散々遊んできて。おそらく彼女はそうではなくて。
そういったこれまでの生き方の違いが、少しずつ彼女の中で歪みになって積み重なっていったのかもしれない。
あるいは年の差のせいか、仕事環境が違いすぎたせいか。
(……飽きられたのか)
そう結論づけるのが、一番しっくり来た。

聞きたいことは山ほどあった。
けれど、俺に別れ話を突きつける彼女の目に迷いはなく、そういうときの彼女が何を言っても聞かないほど頑ななことは、これまでの付き合いで十二分に承知していた。
『俺は別れたくない』『俺に悪いところがあったら直すから言ってくれ』——
そんなみっともない台詞、吐けるはずがなかった。

「そうか」
だから俺はこれまでもそうしてきたように、彼女からの別れ話をその一言で受け入れた。
「これまでありがとな。元気で」
伝票を持って立ち上がる寸前、僅かに彼女の表情が歪んだように見えたけれど——
それは俺の願望だったのかもしれない。

    *     *

あのダーツバーにはとても足を向ける気になれなくて、俺は繁華街をぶらぶらと歩き、適当な店をハシゴして酒を飲んだ。
手持ち無沙汰にスマホを眺め、ふと気づいてあいつの連絡先を削除する。
これまで、女と別れたときは毎回同じようにしてきたはずなのに、なぜか削除の文字をタップする指が震えた。

スマホを置いて深く息をつき、店に来る途中で買った煙草を取り出す。
(3年ぶり、か)
禁煙したのは、あいつと付き合うようになってすぐ。
彼女には煙草の匂いのするキスが似つかわしくないように思えて、自然と吸わなくなった。
煙草を咥え、ライターを手にしたところで横から火が差し出された。
「どうぞ」
横目で見れば、ひどく胸元の開いた服を着た女が俺に向かって意味深な笑みを向けている。
「……どうも」
一言断って、火を借りた。
「お一人ですか?」
俺が最初の煙を吐き出すのを待って、分かりきったことを聞いてくる。
「ええ、まあ」
「なんだか寂しそうだから、さっきから気になってて」
「…………」
女は俺が返事をしないのをどう取ったのか、カウンターの下で俺の脚に手を置いた。
「よければ二人で飲み直しません?」
女の細い指が、ゆっくりと俺の脚を撫でる。

——いい女だと思う。
美人で男をそそる色気もあって、後腐れもなさそうで。
(この女を抱けば、少しは気が紛れるんだろうか)
俺は思いきって女の手を握り——

——そして、その手を自分の脚から引き離した。

「悪い、用事を思い出した」
拒否されると思っていなかったのか、どこか驚いた表情の女を横目に、スツールから降りる。
「火、ありがとな」
「あ、ねえ煙草……」
「やるよ」
1本しか吸っていない煙草の箱を残して、俺は店を出た。

    *     *

あいつに似てる女も、似てない女も。どんな女だろうと抱く気にはなれなくて。
結果、俺に残されたのは、仕事しかなかった。

「密着取材ですか?」
「ああ。お前んとこ、でかい公演仕掛けるんだろ。うちで特集したいと思ってさ」
「それはもちろん、願ってもないことですが」

ある日のこと、学生時代から馴染みの古い居酒屋に後輩を呼び出し、俺は酒を奢っていた。
大学の演劇サークルで一緒に芝居をしていた連中で演劇の世界に残ったのは、結局、こいつと俺くらいだ。

「先輩、最近仕事増えてませんか。劇評の記事もあちこちで見かけますし」
「ああ。俺はな、仕事に生きることに決めたんだよ」
「なんですかそれ……もう酔ってませんか」
「これくらいで酔うかよ」
「どうですかね。歳取ると弱くなるって言うじゃないですか」
「お前なぁ……」

恭太郎には彼女と付き合ったことも、別れたことも話してはいなかったけれど、おそらく何か察しているのだろう。
こうして軽口を叩きながらも酒に付き合ってくれるのがありがたかった。

「そういえば、この間新しく広報専門のスタッフを入れたんですよ。なので、次の取材からは彼女が窓口になります」
「雅臣は?」
「あいつ、他の仕事で手一杯なので。少し負担を軽くしようかと」
「なるほどな」
「仕事の覚えも早いし、一生懸命でいい子ですよ。今度紹介します。それと」

恭太郎は一旦言葉を切って、俺の目をじっと見据える。

「言うまでもないことですが、手は出さないでくださいね」
「……あのな。これまでお前の劇団の役者にもスタッフにも、一度も手出したことはねえだろうが」
「そうですね。うちの女優が入れあげたことは何度もありましたけど」
「不可抗力だっての」

(……そういえば、あいつ、一度も芝居見に行こうとしなかったな)
そんな話をしながら、ふとまた彼女のことが頭をよぎる。
付き合っている間、俺から様々なことを吸収し覚え身につけたあいつが、唯一、俺がどっぷり浸かっている演劇の世界にだけは足を踏み入れようとしなかった。
(理由、聞いてみりゃよかったな)
そのときは単に興味がないだけだろうと気にも止めなかったことが、別れてからこうして何度も繰り返し、心に引っかかる。

それを『後悔』と呼ぶのだと、俺はこの歳になって初めて知った。

    *     *

——ラグナロクの新しい広報スタッフがあいつだったこと、取材をきっかけに再会したこと。
今思い返してみても奇跡のような偶然で、俺は再びあいつと付き合うことになった。

そしてやって来た、ニューヨークでの1ヶ月の長期取材。
毎日芝居漬けで楽しくて堪らないけれど、隣にあいつがいないことだけは何日経っても慣れなかった。

ある週末。
今日の予定は夜にプライベートの観劇が1本だけだったので、少し遅い時間に起きて街を見て回った。
目についたスタンドでホットドッグと炭酸水を買い、手近な公園のベンチに腰を下ろす。
朝食兼昼食を終えてからもしばらくぼんやりと空や景色を眺め、ゆったりとした時間の流れに身を任せていた。

——ふと、聞こえてきた声に目を開ける。
まだ覚束ない足取りで歩く小さな子供が、父親と母親に手を引かれている。
なぜかその若い夫婦の姿が、俺とあいつに重なって見えて——
そんな自分に心底驚いた。

自分が家庭を持つこと。子供を持つこと。
そんなこと、一度として想像したことなどなかったのに……
あいつと歩むこの先の人生に、その未来像はぴたりと当てはまっていて。

そう考えたら無性にあいつの声が聞きたくなって、上着のポケットからスマホを取り出す。
(……日本は真夜中か)
さすがに叩き起こす訳にもいかないと、俺は諦めてスマホをしまった。

——空の色も、空気の匂いも、生まれ育った国のものとはどこか少し違う気がする。
演劇が文化として根付くこの国に、いつかあいつを連れてきたい。
一緒に芝居を見て、語らって、食事をして、さっきの親子のように公園を歩いて——
いくらでも膨らんでいく夢を頭に描きながら、俺は離れた場所にいる恋人に思いを馳せた。

——Dear Kazuma,Happy Birthday!