―― ツラがああなんで怖がられがちですけど、面倒見のいい優しい人っすね! (A.M 26歳/男性/会社員)
―― 頭の固い、割とすぐ手が出るオッサン。意外と執念深ぇ (S.O 21歳/男性/自営業)
―― 表情筋が仕事をしていないだけで、結構喜怒哀楽がはっきりしている方ですよ (W先生 ?歳/男性/医師)
河津柳成の一日は、ロードワークから始まる。
仕事の状況や恋人が泊りに来ているなど、他に優先事項がある場合を除けば、平均すると月の2/3は走っている。
距離や時間・コースはその日の気分によってまちまち。
夜型人間が多い界隈にしてはかなり早起きな時間帯にベッドから抜け出て、脳と体を起動させる。
トレーニングというよりは気分転換としての意味合いが強いが、自ら体を張るより人を動かすことの方が多くなった現状でも、年若いアキや志桐を吹っ飛ばせる程度に力が保てているのだから、多少は筋力維持に効果があるのかもしれない。
帰宅して汗を流した後は、適当に腹を満たしながら相場のチェックをする。
不動産は祖父から継いだ自宅を含め、個人で使用する範囲しか所有していない柳成にとって、主な収入源は株式投資とコンサル業(いわゆるケツ持ち)だ。
この2つに加えて昔ながらのテキ屋業なんかも細々と行っているが、こちらは金策というより伝統の継承と若手の小遣い稼ぎという感覚に近い。
前引けとほぼ同時に到着する迎えの車に乗って、コンサルティング企業として店を構えているオフィスに出向き、そのまま大引けの時間まで社長室で過ごす。
相場が終了してからについては、日によって過ごし方が違う。
「コンサルティングを請け負っている取引先のお偉方と会う日」もあれば、親父の将棋相手を務める日、「社長自ら若手の育成を行う日」や、「近隣の治安維持に一役買って出る日」……なんていうのも稀にある。
柳成は亡き祖父の跡を継ぐ形でこの稼業に足を踏み入れた。
祖父は世襲に拘らない人で、カタギの勤め人の道を選んだ父とは距離を置いて暮らしていた。
顔を合わせるのは多くても盆暮れの年2回。
たまに顔を合わせるだけだった祖父に憧れを抱いた柳成は、時折1人で彼の元を訪れては後をついて回っていた。
後に恋人となる「お嬢」と初めて会ったのもこの頃だ。
電話もあまり好きではないようだったので、父は毎月手紙に写真を添えるというアナログな手法で近況報告を行っていた。勿論、祖父からの返信はない。
この定期報告を祖父がどう思っていたのか訊ねた事は無いが、祖父の遺品の中には、送った写真に直筆の覚書を添えたアルバムがあった。
成長するに従って望む望まざるに関わらず喧嘩を売られる事が増え、ならばいっそ祖父と同じ道を進めば良いのではないかと考えたのは、15才の時。
手元に引き取ってからも孫の将来について口出しをすることはなかったから、反対はされない――もしかしたら歓迎してくれるかもしれないという予想に反して、祖父は初めて柳成に手を上げた。
学校では番を張り、多少腕に自信を持っていた柳成少年だったが、老齢の祖父に全く敵わず。
完膚なきまでに叩きのめされた上に、『学も覚悟もねぇ奴に務まる稼業じゃねぇ』という有り難いお説教を小一時間、正座して聞く羽目になった。
道を反れるつもりで全くと言っていいほど勉強をしていなかったので、土壇場での進路変更にはとても苦労したが、家業を継ぐために医師を目指していた後輩の助力もあって、何とか進学に成功。
その後、紆余曲折を経て祖父と同じ道を選んだ。
命の危機を感じたのはこれまでに2回。どちらも若い頃の話だ。
任侠者になって間もない、血の気の多い若者によくある話なので詳細は割愛。
同業と比べるとかなり少ない回数だが、柳成自身より周囲が酷く気を揉んでいたので、今後もそういった場面が訪れないよう精進していきたい。
その後は、一回り以上年下のお坊ちゃんの子守を仰せつかったり、気まぐれに助けた男子高校生の世話を任されたり――諦めていた高嶺の花を手折ったりしながら、現在に至る。
目下気がかりなのは、面倒を見たガキ2人が揃って順序をすっ飛ばして下のお嬢さん方に手を付けた事。
舎弟曰く「兄貴も同じ立場」だそうだが、柳成の場合は事前に親父の承諾を得ているも同然だった。
それはそれ、これはこれ。俺は良いがお前らは弁えろ――という持論を展開する度に、恋人からは生温い視線が飛んでくる。
どちらも成人済み且つ想い合っている中なので口を出すだけ野暮なのは判っているが、内輪に一人くらいは厳しい視線を向ける人間がいた方が、外野の横やりも減るだろうと思っているので、節目を迎えるまではこの立場を貫くつもりだ。
厳めしいガワに反して面倒見がよく、頑固者で、意外と喧嘩っ早く、殊の外愛情深い――それが、河津柳成という男。